昭和四十五年九月十一日


x  御理解第七十六節
「人間は人を助ける事が出来るのは、有難い事ではないか、牛馬は 我子が水に落ちて居ても、助ける事が出来ぬ、人間が見ると助け てやる、人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから、人 の難儀を助けるのが有難いと心得て、信心せよ」


人の難儀を助ける事が、有難いと感じれゝるとゆう事は、心にゆとりがなからなければ、そうゆう感じも起きて参りません。
 人の段じゃなか、もう自分の事でいっぱいだと、ゆうような事になってくるのですねえ、人の難儀を助けるのが有難いと心得て、信心せよ、その心得られないとゆう事は、私は結局ゆとりがないからだと思う、余裕が無い訳です、有難いと心得て信心せよと、だから信心しておっても、そこのところを有難いと思うて 信心しなければ、信心が信心になってこない事にもなります。
 どうでしょうか皆さん、人の難儀話助けるのが有難いと心得て、信心をしておられるでしょうか、信心はしておるけれども、そうゆうゆとりのある心を、持ち合わせておれないとゆうところに、これはもう、反省させてもらわなければいけないと思う。
 確かに人間は、人を助ける事が出来る、牛馬は我が子が水に落ちておつても、助ける事は出来ない、結局どうゆう事になるかと言うとね、私共が信心させて頂いて、分からせて頂く事、それはね、私共の、この生きる喜びを求めての信心ではない、その生きる喜びが生き甲斐を感じる。
 この喜びを、この思いを、世のお役に立たして下さいと、いったような祈りになってくる、それであって、信心の言わば、正常な信心をしとるとゆう事になると思う。
 ところが一番最後の所に、人の難儀を助けるのが、有難いと心得て信心せよ、と、そこのところを有難いと心得れる暇が無い、世のお役に立ちたいなんて、そうゆう思いも起らない。
 今年のスロ-ガンである、世のお役に立たして下さいと、果たして世のお役に立たして下さいと、どれだけ切実に願っておるであろう、願う余裕が無い、ゆとりが無い、人の難儀を助けるとゆう事、その事はもうそのまゝ、世のお役に立つ事でしょう、世のお役に立ちたい、立たして下さいとゆう切なる願い。
 でもやはり、信心はしておる、それは、どうゆうようなところだろうか、牛馬は我が子が水に落ちてもと、こう、牛馬だつてですねえ、お役に立っているのです。
 牛は牛で、馬は馬で、それは人間の何倍とゆう力を持って、世のお役に立っている、けれどもそれはね、自覚が無い、言うならば餌の為に、言うなら叩かれるから働く事を、余儀なくさせられておるのが、私は牛馬だと思う。
 してみると人間もですねえ、最近のように、せちがらくなって参りますとねえ、同じような事ではなかろうか、それこそ食う為に、人の茶わんでも、それこそ叩き落してからでも、食う為に働いておるとするなら。
 さあ、手形手形と言うて叩かれるから、一生懸命働いたり、お参りも一生懸命しよるとゆうのであったら、それは牛馬と変らない、世のお役に立ちたい等と、信心のいわゆる喜び、その喜びがです、生き甲斐を感じてくる、世のお役に立たして下さいと、切実に願えれる信心、人が助かっていく事を有難い、人を助ける事を有難いと心得て、信心させてもらう。
 これは根本的に、私共は考えなきゃいけませんねえ、果たして、人の難儀を助けるのが有難いと心得て、信心していないとゆう事です。 信心によって、生きる喜びが与えられる、その生きる喜びをです、世のお役に立ちたい、立たして下さいとゆう願いにね、生きた信心をしていないとゆう事です。
 今日の七十六節を頂きますと、根本のところから、私共は考えなおさなければいけない、いゝえ、そんな訳にはいきません、やっぱ自分が助からにゃ、と、もう自分自身がきゅうきゅうしとってから人の段じゃありません、ですから、まず、いっちょおかげを頂かせて下さい、まあ、おかげの方から先です、と言うておるような人だったら、一生立っても役に立ちません。
 お金が出来れば出来る程、もう、世のお役に立とう等とは致しません、世のお役に立つどころか、かえって、悪を流すような結果しか生れてこない、欲には欲がついて、さあ一千万儲かったら、今度は二千万儲からんならんと言うて、血道をそこにあげるだけの事。 ですから根本のところにです、なる程ゆとりはない、ゆとりは無いけれどもです、人の難儀を助けられる事ならば、それが有難いと心得て、とゆう、ひとつ心のゆとりを頂いて、もう自分の事なんかは考えていない、例えば私共が、椛目に人が助かられる前の、私の信心を思うてみるとです、もう自分の事の、それは大変な難儀な中じゃったけれども、その難儀は、棚の上に上げておるような感じだったです。 どこに病人があると言や、どこに難儀な人があると言や、もうそれこそ、遠いも近いもない、暑いも寒いもない、只それが有難いと心得ての、信心が出来ておったなあと、自分で思うです 親教会の月次祭に、月次祭たんびに、下駄の数が増えていくのが楽しみ、古い教会ですから、古い信者さん方が沢山あります。
 それが今頃、信心が途絶えておる、そうゆうところに行っては、信心の話をさせて頂くと同時に、さあ、いつは月次祭ですよと、御本部参拝ですよと、大祭ですよと、いわゆるお導きをして回る。
 ですから度々、月次祭に、玄関に脱いである下駄の数が増える、それが有難かった、それが楽しみだった。
 だからね、自分がおかげを頂かなければ、ゆとりが出来なければ人が助けられる事を、有難いと心得て信心が出来ぬ、とゆう事はない、有難いと心得てと、そこのところを有難いと心得ての信心を、させて頂かなければ。
 私は今日、御祈念中に色々感じさせて頂いた、
合楽に、これだけ沢山の人がいるけれども、もう改めて、これはお礼を申し上げねばいけんと、思うたのですけれどもねえ、
 体の丈夫を願え、何事も体が元なり、と仰る、その何事も体が元とゆう、体の丈夫のおかげを、もうこれだけ沢山の人達が、全部頂いておるとゆう事ですよ、合楽に御縁を頂いたかぎり。
 もう、私は今日、それをず―っと思うてみよったら、これだけでも、本当にお礼が足りんなあと私は思いました。これだけの人達が本当に、病気の為にお参りに見えとる、とゆう方が無い位でしょうが、もう二十年間、それこそ病院にかゝった事が無い、薬飲んだ事が無い程しにおかげを頂いておる。
 それは、どうかある事はあるけれどもです、御神米でおかげを頂いておる、御神酒さんでおかげを頂いておる、とゆう程しのおかげでしょうが。
 私はね、改めてです、合楽の方達は、体の丈夫を願えこれが元だと仰っておられる、元をね、合楽に御縁を頂いたかぎり、頂いておるとゆう事です、もう私どんは、あまりにおかげ頂きすぎて、びっくりする程、こゝのところのお礼の足りないのに驚きます、今日改めて、私はそれを感じた。
 本当に、どれだけ、さかたんぼ    神様にお礼を申し上げても、お礼が足りない位です。
 金銭の上に於いてでもそうです、なる程、参り始めた時には、大変な難儀の人達が、段々おかげを頂いて、それは、その日暮らし的なものではあってもです、万事万端の上に、御都合、お繰り合わせを頂いて、なんとはなしに立ち行きのおかげを頂いておる。
 金銭の事でも、お繰り合わせを願えば、ちゃんと不思議な位な、おかげを頂いておる、今、合楽で言うなら、その金銭の事でも、ゆとりが無いとゆうだけの事。
 銀行にこれこれ積み立てとるといったような、おかげを頂いていないとゆうだけの事なのだ。
 まあ、一番合楽で難儀を感じておる事は、人間関係でしょう、親子の中、嫁姑の中、信心をさせて頂いておっても、……
 私は今日は、ず―っとその事を、考えさせて頂いておりましたらね、私が小さい頃、お腹が痛いとゆう時には、いつも私のばヾが、私のお腹を揉んでくれておった事です。
 お腹に大きな手を置いてね、それこそ、お腹を丸く円を書きながら、なでてくれる、そして、どうゆう事を言うかと言うとね、
「はれなんだ、虫なんだ、芋畑のこやしになれ」と言うて、なでてくれる、「はれなんだ、虫なんだ、芋畑のこやしになれ」と言うてお腹を丸く、こうなでてくれる、そのまゝ私はすやすや眠っておるそのばばの声でです、今日……  合楽の場合はね、そうゆう、ゆとりを頂く程しのおかげを頂いていない、とゆう事の
 おかげを頂いておるなあ、何と言うてもまず健康の上に、本当のおかげを受けておるな、これだけ沢山な人がです、病院に入院してどうとゆう事を、まあだ、お届けした事が無い位に、おかげを頂いておるですから、もう、それは本当におかげ頂いておると、今日改めてそれを思うた。
 そんなら金銭の上はどうだろうかと、金銭の上でも、願えば願うで、ちゃんとお繰り合わせを頂いておる、それはもう本当に不思議な、どんこんされんごたるおかげをです、合楽のおかげは
 只、人間関係の上にです、もう日に何回かは、本当にそれは、生地獄たいとゆうごたるお届けを聞きます、赤裸々な、本当に、しかも、もう嘘のような、私は昨日、ある方のお取り次をさせて頂き乍ら、「まるきり嘘のごたるね」と言うて、本当の親子がどうした事のと、言うような事であった。
 それがね、どうゆうようなところから、そうゆう人間関係の悩みといったものが、つきまとうておるかと、そうゆう事を思わせて頂きよったら、今のその「はれなんだ虫なんだ、芋畑のこやしなれ」とゆう、これが欠げておるのですよ。
 どんなにお腹の中に、どうゆう、ぐうぐう言うような事があっても、痛い思いをする事があっても、それこそ、はれなんだ、虫なんだ、芋畑のこやしなれ。芋畑とゆう事は、こゝでは繁昌と頂かなきゃならんでしょう、芋畑は繁昌のおしらせですから。
 このどうにも出来ない、この苦しみをです、この難儀をです、どうぞ大繁昌のおかげの頂けれる元に、肥やしになる程詞の、おかげを頂かせて下さいと、それこそ、何とも言い知れんゆとりのある、と言うか、昔の人は何と言うても悠長ですねえ、私はその悠長さがね、今の合楽には、欠げておるようにおもいます。
 芋畑のこやしなれ、と言うて、心の中、自分の腹を、なでさすりするだけの、ゆとりが無いとゆう事です、心の中を、言わば、只今申しますようにです、そうゆうゆとりをもって、撫でさすりしておれば、日頃頂いておる御教が、そこに生きてこなければならん。
 それが生きてこないところに、そうゆう人間関係の、いわゆる難しさが、愈難しさを増してゆくような、様相を呈するのです。
 お互いですね、これ程しのおかげを頂いておるのであるから、これ程しのおかげをです、まちっとね、ゆとりのある心で、心の底からお礼を申し上げる信心に、ならなければ駄目です。
 それこそ、巣立つ虫の音に、しばし耳を傾けるだけの、ゆとりがなければ駄目ですよ、最近こゝで言われる、願い願いとゆう事でもそうゆう、私はね、ゆとりのある心で願わなければ、駄目だとゆう事です、あせってあせって、あせりぬいてから、やあやあ言うたっちゃ駄目です。
 そうゆう、これ程しのおかげを頂いてとゆう有難い心を、土台にして、それでも神様、お役に立ちたいとゆう一念、お役に立たして下さいとゆう一念。
 そんなら金銭の上でも、このように、その日暮しは有難いけれどゆとりが無かったんでは、世のお役に立つ事が出来んのだ、為にです、ゆとりのある大繁昌のおかげを、願わせてもらうとゆう信心にならなければ駄目だ。 あまりにもゆとりがなさすぎる。
 そんな事をね、私は思わせて頂いとりましたら、御心眼に頂くのが、樂とゆう字の、白とゆうところを抜いていくところを頂いた、どげな字になるでしょうか、樂とゆう字に白を抜いたら、糸とゆう字は、神様とのつながりとか、人間関係のつながり、下は木が書いちゃる、木は心とゆう訳でしょう。
 神様とのつながりは、いかにあつても、金光大神とのつながりはいかにあっても、心はそこに、おかげを受けたい心はあっても、この白を抜きにしたら、どうゆう事になりますか、樂にはなれんでしょうが。
 樂になる為にはまず、白、白とゆう事は、いつも自分の心が、虚心坦懐と言うか、いつも白紙になっておるとゆう事、そしてその日その日の信心に、精を出させて頂こうとゆう、私はおかげを頂かなければね、いつ迄たったって樂にはなれませんよ。
 いつもお互いが白を抜いてしもうとる、神様の前に無条件とか、神様の前に素直とか、それを抜いてしまったんでは、いつ迄たっても樂にはなれないとゆう事であると、今日私は、思わせて頂いた、教典を頂きましたら、七十六節、今日は今迄とは違った、新たな見解での、御理解でございましたですね。
 確かに人間は、人を助ける事が出来る、助けようと思えば、金がなからねば、物がなからねば助けられぬとゆう事はない、心でも助けられる。
 牛馬は我が子が水に落ちてもと、それを今日、私は、私共がゆとりの無い生活、それこそ食う為に、これからこれまでの事をせんならん、食う為に、もう、きつかばってか、こがしこはしとかんならん、食う為にと、これならもう牛馬と同じ事。
 牛馬自体は、実際はお役にたっている、お役に立ってるけれどもその自覚が無い、只、鞭を持って叩かれるから、動いておると言うならです、さあ、稼ぐに追い着く貧乏なしである。
 言うなら、さあ手形から手形と、追いまくられとるから、一生懸命頑張りもすりゃ、信心もしておる、とゆうような事ではね、もう本当に、こんなつまらん生涯てないですよ、そうゆう事で終るとするなら、ですから、どうでもひとつ人間は、人の難儀を助けるのが有難いと心得てと仰る。
 それには心にゆとりが要る、まず自分自身の心に、そのようなゆとり、只今申しますような、白の字を抜いた樂ではなくて、本当の樂とゆうおかげを頂く事の為に、心の中にひとつのゆとりをね、頂かしてもらう信心を、愈させて頂いて、人の難儀を助けるのが有難いと心得て、そうゆう心得ての信心をね、させて頂くところから、ゆとりも又、許されると思います。
 まず私共が、少しゆとりが出来なければ、人をそげん助ける事は出来ん、といったような思いを捨てゝです、まず自分自身の心の中にゆとりを頂いて、そして振り返ってみるがいゝ。
 私が合楽に御縁を頂いて、おかげを受けておるとゆう事を、ひとつまあ一辺、改めて考えてみるがいゝ、そうゆうお礼を、申しても申しても足りぬ程しの、お礼を申し上げねばならない程しの、おかげをね、有難いと心に感じさせて頂くところに、私はゆとりが生れると思う。
 そこからね、又、私共が最近こゝで言う、願いであります、それは、やむにやまれん、そうゆう人間が生きていく、しかも喜びの生活を覚える、信心によって、しかもその信心で、喜びの生活が、そのまゝ世のお役により立ちたい、より世のお役に立たしてくださいとゆう願いをです、強くする事の為に、例えばその日暮し的なおかげではなくてです、ゆとりのある、色々な意味に於いても、おかげを願わせて頂くとゆう事。
 それは、世のお役に立たして下さいとゆう祈りが、立たして頂きたいとゆう切なる願いが、言わばもっともっと大きな、例えば、経済なら経済の上にでも、どのような御用にでも、立たして頂ける程しのおかげを、頂かせて下さいとゆう願い。
 それには今日、私が申させて頂きましたような、そうゆう喜びの信心とゆうものがです、お礼を申し上げても申し上げても足りません、そのお詫びばかりしております、と金光様が仰る程しのです、心の状態から、それでも願わなければおられない事、それは愈世のお役に立ちたいとゆうねがい、為に、より大きな大繁昌のおかげを頂かせて下さい、とゆうおかげであるならばです、ゆるぎが無いと思う。 ゆとりのない、言うならばイライラ、モヤモヤしておる時に、丁度溺れかゝった者が助かろうとして、はい上がろうとすればする程、ズルズルと沼の中に落ち込んでいくような、結果にしかなりません。
 まず、ゆとりを頂きます、そのゆとりをです、自分自身がおかげを受けておる、そのおかげをね、もう一辺本気で思うてみる。
 ほんなこて先生が言いなさる通り、おかげ頂いとるなあと、こゝで二十年間、本当に医者に、手いっちょ握ってもらった事はなか、薬一服のんだ事はなかとゆう、おかげを頂いている人が、合楽にはどの位おるか分らん。
 そうゆうおかげをですね、おかげと感じとらせて頂いて、信心と言うか、又生活と言うか、ゆとりを頂く。
 例えば難しい人間関係でも、只今頂きますように、
はれなんだ、虫なんだ、これこそ大繁昌の、いわゆる芋畑のこやしになる程しの、おかげを願わせて頂けれる、そうゆう素朴なね、ゆとりを合楽には、欠げておるなとゆう事を、今朝からしみじみ感じさせて頂いた。                 どうぞ。